読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2017年5月の予定

先日の演奏からベースの弦をフラットワウンドにチェンジ。まだ指が慣れず微妙なコントロールに時々手こずるもそれは普段からそうだろうという話もあり言い訳に近い。(笑)なんしかぽこぽこ感が気に入ったので少なくとも1年はこれで行く。

●5月27日(土)19:30〜@桜ノ宮ガラガラ

レツゴー松谷(エレキベースで参加)

ワンマン

ノーチャージ

http://garagara.sakura.ne.jp/

いろいろ決まらない状況から大体決まってきた。新天地が保留なのは変わらないが。もっとも、自分の心の面持ちとしてはこの20年ずっと(比較的積極的に)保留を選び取って生きてきたという感じなのではあるが。

久しく読書というものをまともにしていないのであるが、近くにニーチェに興味を持つ者が現れたので、ふと思いつき、それなら良い入り口があるとマノエル・ド・オリヴェイラ監督『世界の始まりへの旅』(97)を見せてみた。たぶんこれが初めて見たオリヴェイラ映画だった、はず。

何よりレナート・ベルタの撮影に感心していたが、当時見て以来だったためレナート・ベルタが撮影だったことなどはもうまったく忘れていた。まあお見事ですよね、この撮影は。

まず大切なのは向いている(向かっている、ではない)方向で、それを意識づけるためにSaudadeという言葉がある。サウダージとかサウダーデとかサウダーヂとかいうあれ。

どの入口のどういう順番だったかもうわからないのであるが、この映画やボサノヴァやあるいはペソアなどを通して20代半ばから後半あたりにかけて一気に浴びた。サウダージとかサウダーデとかサウダーヂとかいうあれ。

この言葉の意味にはあまり拘泥しない方がいいと当時から思っていた。大切なのは向いている方向。

ボサノヴァは日本人には今でも人気のある方の音楽だと思われるが、ボサノヴァを好きと言う人でこの向いている方向の大切さについて話す人にその後20年まだ出会ったことが無いので、ああそういうもんですかと察し、あまり積極的には会話しないようにしている。お互いのために。笑

実は久しぶりに見るまでマルチェロさんのことすらすっかり忘れていたので、そしてマルチェロさんをよく知らないとのことだったので、また若い頃のものを何か見せないと。『女の都』とか。いやそれじゃあすでに若くないのか。笑

実のところ、この映画で覚えていたのは、中身のあれこれではなくて、これがニーチェの思想を理解、ではなくて、ニーチェのある部分を感覚的に受け止めて味わうのに最良のお菓子だろう、と当時感じた思い出だけ。(だから冒頭の引用のことだけは覚えていた。)

今回見直してみて、ふたりの老年に達した人物の映画の中での配置、構成、動かし方、それだけで見るわれわれの視線を誘導する(映画とはひとことで言ってわたしたちの視線への誘惑だ。)工芸品のようなやり口に舌鼓を打った。

(決して後戻りのきかない)現在時制のみで進んでいく映画の時間の中にある別の時間に向かって前へ後ろへと行きつ戻りつする(その間地理的には海抜の低い川のほとりからヤギやヒツジの群れが通り過ぎる車も入れない山村へ移動する)中で、性別、出自(使用言語)の違い、そして年齢差のある(つまり互いに共感を得ることの容易ではない、がその分だけ風通しの良い)登場人物たちが横並びの切り返しで会話する映画マナーのやはり工芸品のような完成度。

ただ、この工芸品のようなという感想を、少なくとも90年代以降のオリヴェイラ翁(その後にまだ立て続けて何本もこんな工芸品を量産することになるとはこのとき誰も思ってなかったですよね?)の映画についてはつい毎回口に出してしまいそうになり、強いて言うなら、そこが弱点とは思わないでもない。軽妙さを失わない作風で通しておられたけれども、あまり続くとそのブレの無さ加減にこちらが時には根負けしてしまうことは正直あった。なのでとうに確保はしてあるものの見てない、というのがまだ結構ある。なるべく早く見ます。どうもすんません。苦笑

追記、当方ボサノヴァはそれなりたしなむけれどもファドのことはよくしりません。